「戦用第一の利器」としての火縄銃
由来―上杉家と鉄砲の関わりは、藩祖謙信公が春日山に居城していた時に遡る。当初上杉家に入った流派は岸和田流であり、景勝公上洛の際には鉄砲組を編成している。
慶長6年(1601)会津120万石から米沢30万石に減封されてからも鉄砲は「戦用第一の利器」として製造と砲術錬磨に力を注いだ。種子島流の丸田九左ェ衛門盛次や稲富流の大熊伝兵衛を抱え代々鉄砲頭として努める。
米沢藩30匁火縄筒
全長94.3cm・銃身63.3cm・銃口2.8cm

砲術の歴史について
米沢藩20匁火縄筒
全長93.2cm・銃身63.7cm・銃口2.5cm
また鷹山公の時代に入り森重流を招いている。他に小野里流、關流、霞流等諸流があった。明治38年尚武要鑑会を結成、火縄銃の演舞を上杉神社に奉納する。昭和30年米沢尚武要鑑会を再興し、上杉武者行列で火縄銃の集団演舞の際、宮坂善助翁が中心となり稲富流を主に構成し米沢藩稲富流砲術隊とした。この集団射法は古く天正3年(1575)長篠の合戦に見られるため。昭和54年来米沢藩古式砲術保存会として活動している。
東京・札幌冬季オリンピック・国体・上越まつり・石和まつり・長篠のぼりまつり・ジャパンウィーク(フランス・スペイン)遠征等の他、米沢上杉まつり川中島合戦模擬戦にて披露している。

火縄銃の特徴
火縄銃の欠点といわれる発砲時間の短縮を図るため、三隊に分かれて間断なく発砲する実戦体制の集団演舞を再現しており、射法としては、ほお付据銃の膝打ちと立ち打ちが主で、30匁筒を中心に段打ち、乱れ打ち、一斉打ちがある。
米沢藩10匁火縄筒
全長93.8cm・銃身64.1cm・銃口1.9cm

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