朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式
しゅうるしぬりむらさきいとすがけおどしごまいどうぐそくなんばんかさしき
伝 前田慶次(前田利家の甥で上杉景勝に仕えた奇傑)所用具足
前田慶次所用と伝えられている。
前田慶次は加賀百万石の後継者として、前田利家の兄利久の養子となった。しかし義父利久は事に連坐して信長に進退を問われ、頭を丸め利家に家督を譲った。慶次は浪々の身となってしまった。しかし、おじ利家に従って二度に渡る朝鮮出兵後、単身利家のもとを去り「穀蔵院瓢戸斎」と称し、京都で貴賎墨客と交わり文武両道を会得した。文武の道で己を凌ぐ人物・直江兼続と親交、戦国諸大名の中で上杉景勝こそ武将中の武将と惚れこんでいた。
慶次は上杉景勝の客分として千石の秩禄で組外扶持方という自由な立場であった。 といえる。
慶長五年最上の役で兼続とともに、赤柄の大鎗を振るって武勇を轟かせたという。

浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足
あさぎいとおどしくろしぼかわつつみいたものにまいどうぐそく
伝 上杉景勝(米沢藩初代藩主)所用 具足
上杉景勝(米沢藩初代藩主)が着用した甲冑と伝えられている。 具足は甲冑の中では戦闘方法の変化により、機能的に構成されており、当世具足のことをいう。武将の個性を出すのに兜・前立・頬当などにその特徴を表現するようになった。
板物製は着脱の便から蝶番を用いており左脇の蝶番によって胴が前後二枚に分かれるものを二枚胴という。
この具足は前胴八段を韋綴にし全体を黒皺韋包(黒いしわのようなでこぼこの韋)としている。

本小札紺糸威胴丸
ほんこぎねこんいとおどしどうまる
伝 上杉綱憲(米沢藩四代藩主、吉良上野介実子)所用 胴丸
米沢藩四代藩主(吉良上野介の実子で上杉家五代)の所用と伝えられる。
胴丸は騎射戦用として発達した大鎧に対して、打物戦用として上級武士に愛用された。様式としては胴の右側で引合せしているのが特徴である。この胴丸は本小札を紺色糸で威してある。本小札とは細長い鉄や革に孔をあけ韋や紐などを通してつないであるもの。孔は一枚に十三個あけ上半分の五個で横に継いで、下半分の八個(二列)で模様編みにして継いでいる。  兜鉢は六二間で一行三〇点の小星兜である。
(兜鉢から鉄札などを垂れて頸を覆うもの)は素懸紫糸威白檀塗物板五枚である。
前立は表が金色、裏が朱色の木製日輪である。  粋な造りで十六世紀後半の作と見られる。

素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻
すがけしろあやおどしくろしぼかわつつみいたものはらまき
伝 上杉謙信所用 腹巻
上杉謙信が関東管領上杉憲政から拝領したと伝えられる。
腹巻は中世甲冑の一様式で戦闘方法が変ってきて軽快で機能性に優れ、さらに動きやすく考案されたものである。これは四ヵ所蝶番入鋲腹巻で黒皺韋包板物を白綾で素懸威(緒通し)したもので、裾つぼまりの壺袖にもその特徴を見ることができる。草摺は八間で歩きやすく五下り。兜は黒韋張懸頭巾で、祓立(前立を立てる金具)があり、前立ては金属製の蜻蛉(勝虫)である。身をすきまなく覆うことのできる、実戦向きの甲冑で、室町時代後期の作と見られる。

素懸紫糸威黒塗板物五枚胴具足
すがけむらさきいとおどしくろぬりいたものごまいどうぐそく
伝 関東管領上杉憲政所用 具足
上杉謙信(長尾景虎)に関東管領の職と上杉の姓を譲った上杉憲政の所用と伝えられる。
室町末期戦乱の激化に伴い、新形式の甲冑が考案され、当世具足と称した。袖は槍や長刀などの打物戦を反映して廃止又は極端に縮小されている。この具足は、黒塗板物の立挙三段で胴五段を紫糸の素懸威(緒通し)である。兜は二十二間筋兜で銀の総覆輪、
臑当ても黒塗竹雀の金蒔絵と三枚筒に牡丹獅子を金蒔絵にした豪華なものとなっている。仏像の前立は戦場で命をかけて戦うとき、仏様に加護を願い護身のために流行したものといわれている。
室町末期から桃山時代にかけての作と見られる。

浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足
あさぎいとおどしさびいろぬりきりつけざねにまいどうぐそく
伝 直江兼続(上杉景勝の重臣)所用 具足
直江兼続(上杉景勝の重臣)の所用で、慶長五年秋、最上合戦のおり着用したと伝えられる。
胴は浅葱糸(薄いネギの葉の色に染めた糸)で威し、錆色塗切付札板(札を連接して札板とするかわりに一枚の板で連接した札の様に札頭を切ってあるもの)を用いている。草摺(胴に付属し腰から上脚部を守る部分で歩行に便利なように数片に分割されている。当世具足は五間から九間まである)は通常の七間五下りで切付札板である。具足とは元来、物が具わるという意味で既に兜・胴・袖の三物が具わっている。それに頬当・喉輪・籠手・佩楯(膝鎧)などの小具足を具えている。頬当は歯型付で白髪を植え、浅葱糸威切付札板四枚の喉輪付きである。兜鉢は錆色塗六二間筋兜。前立は大きな鍬形と梵字を戴いている。梵字はアンで普賢菩薩(胎蔵界)を表わしている。佩楯は紺糸威黒色伊予札板四段下り。兼続好みの渋い濃厚な甲冑である。文禄慶長年間の作と見られる。

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